北海道地区 鈴木俊治

有限会社 三広堂

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わが人生

1951年7月19日(66歳)の人生です。

旭川生まれの旭川育ちです。大学の時に大阪生活の4年間が唯一の旭川離れた時です。

大学は南河内郡の富田林市にある大阪芸術大学芸術学部デザイン科グラフィックデザインに入学しました。入学した年はちょうど大阪万博が開催していました。

だぶん20回以上は行ったと思います。ほとんど授業が終わって夜の部に行きました。入場料も安く日中よりは空いていましたので、大学からは1時間30分ぐらいで会場まで行けたと思います。北海道で育った私は、人の多さにただ驚くばかりでした。

住まいは寮ではなく、6畳一間台所有、トイレ共同、風呂なしのアパートでの生活を送りました。もちろんそのアパート12室のほとんどが芸大生だった記憶があります。公衆浴場まで歩いて5分ぐらいでした。大学は富田林駅前まで歩いて15分で、バスに乗って15分、バス停から坂道を歩いて10分くらいでした。大学は小高い所にあり、春先になると「マムシに注意」の立札がそこらじゅうに立っていました。春にはタケノコ、秋にはミカン狩りが出来るような所でした。

住んでいたアパートで人生の友と出会いました。長崎県五島列島出身の一つ年上の先輩です。専攻も同じグラフィックデザインでした。先輩は大阪市内のデザイン事務所に就職をしました。私が旭川に戻って5年ぐらいたった時に、もう一人の友から先輩が会社を辞めて、放浪の旅に出て連絡が取れないと捜索願いの連絡がありました。それから2、3年後に連絡が入り無事に生きていると。放浪の旅に出て自分の故郷に戻る途中で岡山県備前焼に惹かれたそうです。窯元で修行をして35歳ぐらいの時に独立しました。今では大変有名な作家になっています。25年ぐらい前に初めて遊びに行った時に「年に一回の火入れで、あと何回作品が出来ると思う?」と言っていました。私の人生で衝撃的な言葉でした。

大学卒業後、大阪市内でデザイン事務所に勤めましたが、8月に父が49歳で病死して会社を辞めて帰って来ました。

今の職業の看板屋は帰省した当時は完全にアナログの時代で、職人の世界でした。戻って来て10年ぐらいたった頃、カッティングマシンが登場しました。デジタルの時代です。最近では大型インクジェットプロッターと仕事のやり方が大幅に変わりました。筆一本の時代から考えると膨大な設備投資が必要とされました。やっと大学時代に勉強した事が少しずつ実ってきたと思っていますし、看板からサインに呼び方が変わりつつ、この先将来を見つめながら後継者に、どのようにすれば良いか考えています。

私自身一生懸命に働いていたつもりです。自分自身の人生にカウントダウンなどありませんでした。思っていたのは、子供たちに何か一つ残したいと思っていました。子どもたちが自慢できる私の人生しか考えていません。残された人生を楽しみたいと思っています。

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