Rian Ihara
有限会社井原理安デザイン事務所
関東地区
1974年(昭和49年)日本サイン・デザイン協会(当時は任意団体)にサインメーカー(世の中はまだまだ看板屋さんでした)でSDA賞に応募した作品が 銅賞をいただいたのを機に会員になったのを覚えています。
当時は東京、大阪、京都、中部、中国、九州サイン・デザイン協会で 正会員総数147名に賛助会員、客員の方々で構成されていました。サイン業界(看板業界)でもサインのデザインはサービスで 製作が受注すれば良しとした時代で 世の中も大型ネオンサインなどで 亀倉雄策、伊藤憲治、田中一光など 著名なグラフイックデザイナーの方々が活躍されていました。
SDAと深く永く関ってこられた思い出 というのは、サインデザインがサービスでなく有料であるということで、1968年に竣工した霞が関ビルを始めとした超高層ビルの台頭でした。それは屋上看板、袖看板、壁面看板といった看板から足元回りのサイン、館内のサインのシステム化が求められトータルで計画する業務が重要になり、ディベロッパーの事業者や建築設計者もサインデザインという仕事が大切と変わっていき、近年ではインテリアデザイナー、ランドスケープデザイナー、ライティングデザイナー、アートワークテザイナーなど様々な分野のデザイナーとのコラボレーションが大切になっております。
SDAと共に歩まれた出合いと青春 という関点では、京都支部、九州支部(以前の支部)の脱会で4支部になり会員の増強、支部の活性化ということで東北地区、岩手県庁の佐藤優様を通じてトーホク宣広の戸田様、北海道地区では学校法人栗谷川学園、北海道造形テザイン専門学校の栗谷川悠様、井畑様、沖縄地区では琉球大学工学部の池田教授をはじめ株式会社タムの伊藝様を中心に各支部で正会員30名程度入会者を集い支部開設になりました。各地区へは出張の折々に地区会員と交流を図り、各地区の勉強会、見学会に発展し有意義な時間を過せたと思います。
社団法人化に向けて通産省より会員500名5000万円の事業費という目標をいただきましたが、なかなか達成することが難しく理事会では会員増強に様々なテーマをもって、理事一人一人が真剣に議論もされました。
SDAの未来 という点ですが、SDAという船がどの方向に向って大海原を歩んでいるかという点で、会員、これから入会される人々が魅力ある船に乗船出来ることだと思います。

